学校に行かないのはかわいそう?それって誰が決めたの?

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 私は中学校2年生の2学期から、あまり学校に行かなくなった。それにはいくつかの理由があったのだが、すべてに共通していえるのは、「自分の意志で」行かなかったということだ。

 どんなに学校の先生が誘っても、どんなにクラスの友達が仲良くしてくれても、私は学校という閉鎖的な空間に行きたくなかったのだ。

始まりは学級崩壊

 事の発端は、担任の先生が内地留学(長期の研修)のために、担任が変わったことだった。もともとやんちゃな子が多く集まっていた私のクラスは、そこからだんだんと荒れ始めた。学校のルールや先生の指示が通らない、守っていると馬鹿にされる。そんな生活に嫌気がさして、徐々に学校に向かう足が重くなっていった。

 確かに、友達との関係は悪かった。特段仲の良い友達がいるわけでもなく、一匹狼のように生活していた。さらに「スクールカースト」がクラスの中でできあがり、私の居場所はどんどんなくなっていっているように感じていた。

 しかし、一番の決め手は、「このまま学校に行っていても、私に利益がない」と思ったことだった。

 最初のうちは、親とたくさんけんかをした。「どうして行かないの!」「行きたくないから行かないなんて、そんなのおかしい!」けんかをするたびに、私はもっと学校に行きたくなくなった。

 それでも、完全な不登校にはならなかった。遅刻や早退をしても、公立中学校は出席扱いになる。給食を食べに行ったり、部活の練習に行ったり、自分のためになると思ったことは学校に行って、やっていた。

「学校でやる勉強なんて、ほとんど役に立ってないじゃん」

 周りの大人たちが一番心配していたことは、何より成績のことだった。

 私は、勉強が不得意ではなかった。中学校に入学してからずっと、学年で上位5%に入るくらいの成績だった。学校に行かなくなったもう一つの理由はここにあった。

 学校の授業でやる内容は、私がすでに理解しているものだった。進学塾に通っていた私は、塾で勉強し、家で復習し、それから学校でまたその内容を聞くのだった。学校でやる内容は、もちろん基礎基本で、問題を解くにしても時間が余って仕方がない。それなのに、他の内容の自主学習は授業中にしてはいけないという指導だったのだ。

 なんという時間の無駄だろう。義務教育に関して、私は制度の是非を述べているわけではない。ただ、私にはその時間が苦痛で仕方なく、もっと有意義な時間の使い方をしたいと思うようになっただけなのである。

時間を好きなように使える喜び

 そうして私は、学校ではなく塾や家で勉強することを選んだ。その時間はとても有意義な時間だった。

 好きな科目に好きなだけ時間を割くことができる。苦手な科目は時間をかけて勉強することができるし、得意な科目は応用の問題まで進むことができる。ただ、勉強をするだけでなく、母親が聞いていたNHKラジオ講座を一緒に聞くことで英語のリスニング能力を養うこともできた。大好きな飼い犬と一緒に日光浴をする日もあったし、自分で料理をする日もあった。

 始めは親とけんかばかりしていたが、しばらくして親は私のことを諦めたようだった。もしかしたら、家で自分からいきいきと勉強する姿に考えを改めたのかもしれない。どちらにせよ、中学生というまだ人生経験が浅く多感な時期の子どもにとって、自分のやりたいようにできるという経験は大きなものであった。

学校だけがすべてじゃない

 中学卒業まで、私は五月雨登校を続けた。そして、県内一の進学校に合格した。

 今日、不登校の子どもが増えていることが問題視されている。しかし、問題なのは「不登校」と子どもたちをひとくくりにしてしまうことであると思う。人に得意なことや苦手なことがあるように、子どもにもそれぞれのペースがある。それを無視して、全員が同じようにできることを目標にする学校教育は、本当によいものなのだろうか。「不登校」とレッテルを貼る前に、大人たちは、その子がなぜ行かないのか、もしくは行けないのかについてもっと耳を傾けなければならない。

 勉強だけが全てではないし、学校だけが全てでもない。大人に職業選択の自由があるように、子どもたちにも学びを選ぶ自由があるはずだ。

書いた人 ゆず

文系大学生|元不登校|精神障害|動物|国際|「場づくり」の研究中|繊細さをコミュニケーションで生かす|『かがみよかがみ』でエッセイデビュー|noteも更新し...

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