改善点だらけじゃないか!平和の祭典に取り残された人たち。

オンナの叫び

情報保障における多様性と調和

大会初日。開会式で幕を開けたオリンピックは、テレビに手話通訳者がいなかった。多様性として、手話を母語としている人たちのことが考えられていなかったのだ。これは、聴覚障害などの理由で手話を使う人たちの要望により、閉会式にはつけられるようになった。もし、当事者の人たちが動いていなかったらどうなっていたのだろうか。聞こえなかったり、聞こえにくかったりする人は、置いてけぼりだったのだろうか。

閉会式で初めて手話通訳を目にした人には、その表現の仕方が斬新だったのだろう。一時はSNSで「手話通訳」がトレンドに入った。これを機に、手話通訳の必要性が日本にも広まってくれることを願うばかりだ。

また、情報保障としてNHKの字幕のつけ方も新しい技術が使われていた。通常、生放送の番組の字幕は、リアルタイムで作成しているため若干のタイムラグが生じる。これは、人が入力していても、機械が自動で入力していても同じことだ。

目で字を追いながら映像を見ると、とても違和感がある。字幕を読んでいるときには次のテロップが流れていたり、全然関係のない映像が流れていたりする。

そこで、東京大会では30秒放送を遅らせることで字幕と映像がぴったり合うようにしていた。これは革新的だぞ!と私はわくわくしながら見ていた。

耳が聞こえていても字幕が必要な人もいる

なぜ、私がここまで情報保障についてとやかく感想を述べたのか。それは、私には字幕が必要だからだ。耳が聞こえないわけではない。確かに同年代の他の人たちに比べれば聞こえにくいかもしれないが、会話には困らない。

私は聞いた音を文字として認識するのが苦手だ。テレビで誰かが話しているのが聞こえていても、その内容が頭に入ってこない。だから、クイズ番組やバラエティー番組は見ていてつまらない。そんなときに、字幕を見つけて、常時つけているようになった。それが私の日常だ。

もちろん、字幕でなくてもいい。私はボランティアで1年くらい手話を勉強していた。だから、簡単な手話なら分かる。どんな形でもいいから、「目で見て認識できる何か」を私は求めていた。

今回の大会は世界的に注目されている平和の祭典で、障害者も大会に出ることから、勝手に合理的配慮はされているものだと思っていた。しかし、現実は違った。当事者たちが努力しないと何も変わらなかった。何が「多様性を自然に受け止め、互いに認める」だよ……

パラリンピックが全てではない

多くの人が勘違いすることなのだが、パラリンピックに出場した選手が障害者のすべてではない。聴覚障害者や精神障害者は出場する権利すらない。また、彼らはたまたまスポーツに秀でていて、それについて努力する才能があっただけだ。分かりやすくいうと、日本について全く知らない人が柔道で金メダルを取った阿部兄妹を見て「日本人はみんなあんなに柔道が強いのか!」と認識してしまう、というようなことだと思う。そんなわけはもちろんないのだが、多くの人が障害者について持っているイメージというのは、そのようにしてできているということだ。いかに恐ろしいことなのか、分かってもらえただろうか。

それでも、メディアはあたかも彼らが障害者の代表であるかのように報道する。オリンピックを期に変えてほしいと願っていたが、そう簡単にはいかないようだ。

冬季オリンピックの招致に向けて

平和とはなんだろうか。何度も考えたが、答えは出ない。だからこそ、分からないながらも理解しようとする努力が必要なのだと思う。

日本でまた、平和の祭典を開催しようと思うのなら、もっとこの「平和」の根幹について考えてほしい。

東京オリンピックは成功だったのか?この問いには人それぞれの意見があると思うが、私は「改善点だらけじゃないか!」と大声で叫びたい。そして、次回の開催がもっといいものになるように期待している。

書いた人 Mengmeng

文系大学生|元不登校|精神障害|動物|国際|「場づくり」の研究中|繊細さをコミュニケーションで生かす|『かがみよかがみ』でエッセイデビュー|noteも更新し...

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