不登校の一日

ヤミ・沼

「もうお母さん、知らんから!」捨て台詞を吐いて、玄関のドアを閉めた音がする。これは私が高校1年生の秋に不登校になってから、もはや朝の恒例行事になっていた。私は家の中で唯一、鍵が壊れていないトイレで立て篭もって、鍵が閉まる音を確認したら、ホッとして夕方まで眠る、これが不登校だった私の一日の始まり。

母が無理矢理、学校に行かせようとするのが嫌だった

中学二年生のとき、陽キャのクラスメイトが「塾に行きたくないって行ったら、お母さんがディズニーランドに連れて行ってくれたの~」と、教室の真ん中で友達に囲まれながら自慢していたことを思い出す。そんな接点が全くない喋ったことすら記憶にないような女子がいた。あの子が心底、うらやましい。私もそんな家庭で育っていたら、不登校にならなかったかもしれない。今でもそう思っている。

 

でも、私の母は真逆だ。

 

何かを行き渋った瞬間には、否応なく、行け!と殴ってでも行かせようとする。小学六年生のとき「いじめられてつらい」と言ったときは、大して話も聞かず「あんたが悪い」と即答。本気で悩んだ娘の「生きるのがしんどい」には、「そんなこと、誰でも思ったことがあるから気にするな」と謎に励ます。そして「学校に行きたくない」と言った日には、もう大変だった。

私の話を聞かず圧力で解決しようとする母

その「学校に行きたくない」と、言った高校二年生の秋から戦争がはじまった。

 

まずは、朝の曲合戦。母が明るい曲を流し始めると、『SHISHAMO』の「行きたくない」で対抗する。布団から出ないとき叩き起こされ、殴ってでも、学校に行かせようとした。とにかく怒りで力任せにしようとする。

 

なんなんだよ。学校に行かないからって、死ぬわけでもないのに。私、学校に行くと死にたくなるんだけど。そう言うと「親を脅すな」と言われた。脅しじゃなくて本気(マジ)です。

 

そこまでする理由を聞くと、いつも「私のため」と言われた。私からすると、母が安心したいだけに見えている。

 

私を置いて仕事に行ってしまうのも、仕事の方が大事なんだなと思ってしまうし、私には「学校に行け」と言うのに、母は仕事を休んでくれないなんて、フェアじゃない!とさえ思っていた。

 

母が出て行った後は自分のエネルギーを使い果たしてしまって、トイレの中で寝てしまっていた。夕方になると目が覚めて、念のため、夕方なのに朝ごはんのパンを食べた。

 

それで、両親が仕事から帰ってきたら、母と父はいつも喧嘩していた。父は私が学校に行かないことに対して何も言わず、私が相談すると「好きにしたら」と、だけ言っていた。そんな父に母は「無責任だ」と怒る一方である。私のせいで両親がケンカしているところを見るのも嫌だった。

 

夜になると、そんなことや昔の嫌だったこと全てがトラウマのようによみがえってきて、泣けてくる。それがつらすぎるから、ぷよぷよクエストをして、悲しい気持ちを考えないようにしていた。それなのに、「学校に行かない人に遊ぶ権利はありません」と、スマホを取り上げられたこともある。両親がパスワードを手当たり次第、打ち込んでスマホの中身を見ようとしてロックがかかったこともある。しまいには私のスマホはデータがリセットされた。心のよりどころだった友達の連絡先さえ、全部、消滅だ。ますます私の精神は追い詰められた。

本当は一緒に悩んでほしかった

二十三歳になったいま考えると、不登校は遅めの反抗期でもあった。

 

私のため、私のため、と言うならば、「こうしたら安全」と言うことよりもストレスを発散方法や、死にたい気持ちが改善できるメンタルケアを一緒に考えてほしかった。

 

私の好きなものを取り上げたり、捨てたりして、学校しか選択肢がないようにするのでは無く、好きなものを増やして、未来の選択肢を広げてほしかったな。

 

つまずく時期はだれでも来る。それが、私は高校1年生の秋に不登校という形で出てしまっただけだと考えている。正解がない。だからこそ、目の前の私と向き合ってほしかった。ただそれだけ。学校、行かなくても好きだった文章を書くことを仕事にしているよ。大丈夫、人生は生きてさえいれば何とでもなるからね。

書いた人 杉本しほ

1997年、兵庫県明石市生まれ|大阪在住|元不登校|note初投稿エッセイ『不登校だった私の話』700スキ超|10年前からブロガー|平日は就労継続支援A型コ...

プロフィール

ピックアップ記事

関連記事一覧