両親揃っていることが”幸せ”なんじゃない!

オンナの叫び

「あんたは幸せ、お父さんとお母さんが揃っているんだから」

祖母宅から帰ってくると、母は口癖のように私に言って子供の頃の昔話が始まる。
それは嬉しかった話ではなく祖母が母達を置いて一時期いなくなった時のことだった。

幼かった私は、優しい祖母が大好きで、母は私に優しくする祖母が嫌いなんだなと子供心に感じる瞬間、私はただ聞くことしか出来なかった。

鬱病の母の10年間

私が小4の冬、母は望んでいた妊娠に気が付かず流産した。仕事が忙しくて、体調の変化に気が つかなかったらしい。 18歳で私を産んで、その後欲しくても授からなかった2人目、母の願いは 叶うことはなく、精神を極限まで追い込み鬱病の母と私の10年間がスタートした日でもあった。

この日を境に、母は毎日泣くようになった。 妊娠に気づかず流産したことへの後悔、
そして「死んだ子が可哀想」そう言って泣く日もあれば、
「あんたは幸せ、両親揃っているんだから、婆ちゃん居なかったから母さんは妹守らなきゃって頑張るしかなかった」そう言って悲しみの矛先があちらこちらへと飛んでいた。

精神的に良い日悪い日があったが、日を重ねるごとに悪い日が増え、食事も作れない日が増え ていく。

部屋に閉じこもりカミソリでリストカットする時もあった。
絆創膏で止血出来るほどの出血からは、死にたいけど死ねない母の苦しみを表していたのかもしれない。

「死んだ子が1人で可哀想、私がそばに行かないと」「あんたにはお父さんがいるけど、死んだ子は1人で悲しんでる」泣きながら話す母に、私は母が握るカミソリを奪い家中の刃物を隠すことしか出来なかった。
そして刃物がない部屋で、母は泣きながら私を叩いた。 「母さんも痛いんだ よ」以前の優しかった母の顔はそこにはなく、私は夜が来ると朝が来るのが怖くて、朝目覚めないことを祈っていた。

少しずつ変わっていく母

精神的に不安定な母の状態を見かねた父は妹に相談していて、妹の勧めで精神科へと受診することになる。

この頃の母は、自由奔放の妹を良く思っておらず、精神科へ連れて行かれたことに対して怒りで母は父を責めた。無口な父は反抗せず、怒鳴り声が響く隣の部屋で私は怯え、終わるのを待つしかなかった。

精神科で処方された薬は、安定剤と睡眠薬。 感情的に泣くことは減り「死にたい」と言わなくなったが、母の執着は私へと向けられ、約束した帰る時間を1分でも過ぎると玄関で座っている母に「どうして約束が守れないの」と何度も叩かれ た。謝っても許してもらえず、自分の感情が失われていく、母が居なくなることを願うようになっ て、母が言う両親揃っていることの幸せは、私にとったら苦しみしなかなった。

父の手術、私の入院、病院との行き来が増えたことで、母は少しずつ変わっていく。

ふと見ていたTVで、死の世界を学び水子供養をしたことで「死にたい」とは言わなくなって手料理も作り、時々笑顔で話すことと増えていった。

精神科の薬も、副作用が強いからと服用を調節するようになったが、鬱病はなかなか母を解放してはくれない、私への執着は高校入学まで続いた。

高校は定時制を選び、昼は働き夜学校に行くことで母と過ごす時間を少なくなって私に対する母の執着は減っていったが、私の中には孤独感が生まれていた。

それは誰と居ても満たされること のない孤独感だった。

母は私が20歳を過ぎた頃、鬱傾向になることはあっても、病院へ行くことはなかった。

虐待の痛ましいニュースを見る度に、もしかしたら自分もその中の1人になっていたかもしれないと思う時がある。

人はそれぞれ、育ってきた環境で価値観が違う。

両親が揃っていること、それが幸せだと思っている母もまた、育ってきた環境に苦しんだ結果なのだと理解できたのは私が子供を産んだ時だった。

母のことは好き。 母の笑顔は嬉しいし辛いことがあると心配にもなる。 けれど、私の中ある冷めた部分と孤独感は消えることはない。

子供にとって両親揃っていることが幸せなのではない、安心して暮らせる場所があることが、1番必要なことだと私は思う。

そして虐待を受けた子は、大人になっても心に負った深い傷が癒えることはなく傷を抱えて生きていることになることを忘れないで欲しい。

書いた人 サナ

仕事と3人の子育てしながら作家への夢を追い続けるアラフォーママ。 一年の半分は神輿を担いでいる女。  中退していた高校を30代で卒業、その後介護福祉士になる...

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