なぜ幸せのシェアは自粛をしなければならないのだろうか?

オンナの叫び

幸せの自粛とは?

受験生の頃から不思議に思うことがある。

受かったひとがSNSで合格報告をした時、

「まだ決まってない人もいるのに自分だけ受かったツイートをするのは自分勝手だ。
他の人の気持ちを考えるべきだ。」

どこからともなく、そこはかとなく、そんな言葉がじわじわと浸透していたのを覚えている。

嬉しい出来事を嬉しいと言っただけなのに、糾弾されるのはなぜだろうか?

なぜ自分の幸せは自粛しなければならないのだろうか?

この社会は幸せな人、楽しんでいる人に対して他の人の気持ちを考えて自重しろという。

コロナでも、この大変な時期に旅行に行くなんて、
辛いからこそチャンスがあるって言うなんてあり得ない
といった人達がかなり多いことに驚いている。(旅行に関しては対策をしていることは前提として)

確かに、不幸にあった人の目の前で自分の幸せを言うのはおかしな話だし、
考えなさいと言われるべきなのはわかる。

ただ、不特定多数の人が見るSNSにまでそれを求めるのは違うのではないだろうかと私は思う。

そもそも全員が幸せな時ってあるのか?

SNSというと世界中に発信しているので、誰かしら世界中の人の目に触れるという前提で考えると、

毎日、誰かは事件に巻き込まれたり、人が死んだりしている。

仕事がなくなる。受験に落ちる。成績が悪い。怪我をする。病気になる。

もっというと明日食べる食事がない人や虐待を受けている人、戦争に駆り出されてる国だってある。

不幸が全くない日なんてないだろう。

では、先に述べた意見が成り立つとすれば、
永遠に幸せなこと楽しいこと嬉しいことは発信してはいけないということにならないだろうか?

だってその人達がどう思うか考えなければならないんだから。

自分が不幸な時、辛い時に他人の幸せを見るのは確かにしんどい。

それに不謹慎なことを言う人も良くないのはわかる。

それでも、自分の事情で不特定多数が見るSNSにおかしいというのは違うのではないかなと。

自粛ムードやその件に関して心をいためるひともいるのはもちろんだが、
そんな人たちはSNSを見るほど余裕もないのではないだろうか?

一部の部外者が自粛を超え高々に掲げているいう通りにするのだろうか?

心の容量はその時々で変わるかもしれないが、
他の人の幸せも喜べるくらいの余裕は持ち合わせていた方がいいに決まっている。

そして、言う側も遠慮をするとそのボーダーは決めずらく、
永遠に言えなくなるので最低限を気をつけてたら話したいことを発信すればいい。

そうしてSNS全体に幸せをお届けしてほしい。

この嫌な気分が蔓延している世の中、気にすることなんて死ぬほどある。

そんな中、せめて幸せのシェアだけは自粛をしないでほしい。

どうか幸せのシェアが社会を明るく照らすものでありますように。

書いた人 ふみか

某理系女子大→大学院→27歳新社会人。働くのに向いてないか、会社がブラック現場な社畜OL。30歳までに結婚するためアプリで婚活中。恋愛はトライ&エラー。趣味...

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