みんなの望む「私」と本当の”私”、『私らしさ』ってどっち?

オンナの叫び

幼い頃から、「しっかりしているね」と言われてきた。それが、のちのち私を縛る呪いになるなんて知らずに。

 

「しっかりしている」ことで承認欲求を満たした。

先日大掃除をしていて偶然見つけた幼稚園の時の連絡帳に、「寿乃ちゃんはしっかりしている」と頻繁に書かれていた。
そのうえ、当の私は全く覚えていないが、4歳の時に運動会で選手宣誓をやっていたことが記されていた。

 

分類したりされたりするのは好きじゃないけど、私は典型的なA型長女。
わがままを我慢したり世話を焼いたりは通常運転。
生真面目で曲がったことは大嫌いなリーダー気質。
それが、外面の私。

だから、その連絡帳を見ても特に驚きはしなかった。

 

しっかりしていることは褒められることなんだと認識したのはわりと早い時期だった。
幼い頃から自己肯定感は低いのに承認欲求は強い私は、褒められることに人一倍敏感だった。
私が簡単に褒められたり認めてもらったりするには、単にしっかりすればいい。しっかりすることが特に苦ではなかったのが幸いだった。
私は自分の承認欲求を満たすために、意識的にしっかりするようになった。

 

目につく「しっかりしている人がやりそうなこと」にはだいたい手を出した。
班長からクラス委員、生徒会長まで。
頑張れば「しっかりしている」と褒めてもらえる、認めてもらえる。

それだけが私のモチベーションだった。

 

人前で本当の「私」を出せなくなった。

ところが、これには弊害があった。「日下寿乃はしっかりしている」というパブリックイメージと引き換えに、
私は他人の前で気を抜けなくなった。

本当の私は、しっかりなんてしていないのに。

 

本当の私は、臨機応変とか行き当たりばったりとか大歓迎だし、
自分の部屋や机の上は教科書から化粧品までさまざまなものが常にとっ散らかっているし、
提出物ややらなければいけないことの8割はギリギリまで放置しちゃうし、
集中力も継続力もないから、計画は立てるだけで満足しちゃう。

でも、こんな私は、誰からも褒められないし認めてももらえない。

 

一度だけ、友人の前で気の抜けただらしない私を見せてしまったことがある。
疲れていたのか、なんの資料だったかは忘れたが、大切な資料を机の上に置きっぱなしにした上に間違って処分してしまったのだ。

その時の友人の失望したような冷ややかな目が忘れられない。

 

わかっている。
しっかりしていない「私」が求められていないことなんて、本当の私に価値がないことなんて、嫌と言うほど知っている。

当は、本当の「私」でも認めてほしい、必要としてほしい、価値があると思ってほしい。

だけど、本当の私を他人に見せて、その人の中の「日下寿乃はしっかりしている」というイメージを壊したくない。

幻滅されたくない。

しっかりしている外面の私なら、本当の私よりは褒められる、認められる、求められる、価値がある。
だから私は、「しっかりしている日下寿乃」を演じる。

 

外面の私を捨てる覚悟はまだない。

「ありのままのあなたで」とか、「素の自分をさらけ出して」とか、よく聞くけど。
これらを鵜呑みにしてしまったらただの自己中になってしまうんじゃないかってずっと思ってる。

どうせ本当の私が好かれないことなんて分かりきっているんだから、わざわざ自分をさらけ出して嫌われる必要はどこにもない。
しっかりしてる自分を見せ続けることが大きな損であるわけでもないし。
私はこれからも「しっかりものの日下寿乃」で居続けるだろう。

でもいつか、誰か本当の「私」も認めてください。

 

日下寿乃

ココから自分色に染まるライター 神奈川県の湘南出身、2001年生まれの現役女子大生。都内の女子大で総合政策を学び、メディア業界に就職するためにさまざまなスキ...

プロフィール

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